当事者インタビュー - actual story -

【記事全公開】大切な家族を怒鳴ってもそれを忘れてしまう 運送業 岡崎さんの場合

30代男性
運送業

高校生の時にバイク事故で生死をさまよい、重度の記憶障害、社会的行動障害が残った岡﨑さん。このため、人間関係のトラブルが絶えず、転職は100回以上!嫌な事も楽しい事も、記憶が抜けてしまい、自分が生きている感覚が解らなくなる時があると言います。
未診断のまま、15年以上総当たり戦の人生を送っていた岡﨑さんを支え続けたのは家族とケースワーカー、そして回復のきっかけはNPO活動でした。

まとめ

  • 記憶がない、言われても覚えがない
  • けんかをしたことや 、 楽しかったことも、記憶にないので、
    大きいノートにひたすら書き留めている。
    家族や周りの人に「 僕はこのことを忘れるから」と伝えている。
    大切なことは「文字で書いて」「直前に言ってほしい 」と伝えている。
  • 出勤前の準備
  • いちいち点呼しないと忘れ物がある。
    何か気になると手が止まるので、遅刻してしまう。
  • 職場での人間関係
  • こうあるべき!と思ったことをそのまま言い 、 けんかしてやめてしまう 。
    そのくらい我慢したらとか言われるが、我慢できない 。
    ストレスがたまると、身体が震える 。
  • 転職活動
  • 人が嫌がる仕事は 、いくらでも求人がある。
    100回以上転職しても、第一印象がよければ、採用される 。

専門家による寸評

言語聴覚士西村 紀子

未診断のまま様々な困難を経験してきた岡崎さん。
重度の記憶障害があるため、多くのトラブルにおいても、あまり本人は詳細を覚えていません。今回の取材はお母様に聞き取りをしたり、奥様同席の取材でした。
「記憶障害がある人は、嫌な体験を忘れるから、負の感情が積み重ならないんだよね」と思われがちですが、忘れていることに対する不安や恐怖感は、私たちが想像する以上のものであるようです。
自分が何をしてこういう結果になったのか、周囲から成り行きを聞いても「ぴんと来ない」ので、常に「今」しか生きていない感覚が付きまとうそうです。そして、「自分は生きているのかな?」という気持ちになって、わざと身体に危険を及ぼすような行動をしてしまうことがあるといいます。私たち支援職は、危険行動の背景に、本人なりの論理があることを知っておいた方が良いですね。
さて、岡崎さんを支えているのは、ご家族とケースワーカーです。自分にとって大切な人との関係が壊れていないのは、生きていく上で強さになります。では、岡崎さんの場合、たまたま家族が良かったのでしょうか。そうではなく、家族に対し、丁寧に障害を説明した医師がいて、ケースワーカーという第三者がいたことが大きいです。ケースワーカーが、トラブルがあった時には話を聞き、本人だけでなく家族も支えています。それも担当が変わらず、長年、寄り添っていることが大きなポイントです。
昨今は、医療保健制度の事情により、リハ職が入院中に家族への説明や指導をしたり、さらに退院後も同じ職員が関わり続けたりすることが難しくなってきました。受傷からの経緯を知っている支援者がいると、本人、家族ともに安心ですよね。そして家族が安心であること自体が、本人にとって非常に重要ですから、こうした制度についても考えていきたいものです。
もう一つの秘訣は、社会活動です。岡崎さんが社会的スキルを身に付けていったのは、NPО法人の活動があったことが大きいです。
障害の評価とリハビリテーションプログラム、家族への説明とケア、そして社会復帰。この三本柱が整っているからこそ、交通事故による重度の障害があっても、長期にわたり改善していくのだと改めて思いました。
「仕事に戻れませんよ」と安易に伝えてしまうのは、重々考慮すべきであると考えます。

取材から見える事

文筆業鈴木 大介

鈴木 大介

我慢できない」「わがままになる」といった文脈で表現されることの多い「易怒」の特性ですが、当事者の立場からすると、大変心外です。自分でもコントロールできないほどの怒りが猛然と湧き上がってきて、それを必死に抑えて抑えて、我慢しているのが、当事者の感覚だから。
多くの当事者がその発作的な怒りを、暴言や暴力といった形で発露してしまった後になって「なんで抑えられなかったのだろう」「取り返しがつかないことをしてしまった」といった後悔や自罰感情に苦しむのに対して、岡崎さんにはそうした感情がそこまで大きくないように感じたのは、あくまで岡崎さんが自身の譲れない価値観や美学のようなものに反することに限定して、怒りの反応をしているからかもしれません。
「正義感って言葉は好きじゃないんですけど、僕自身が曲がったこと嫌いやし、愚痴が多い潔くない人間になりたくない。男気を通して生きていきたいと思ってますから。間違ったことで怒ったことはないと思ってます」
仕事の場以外でも公共マナーに反する人に激昂したり、赤の他人の、喧嘩の仲裁に入ったりしてしまうなど、岡崎さんの行動を聞いていて感じるのは、十代の青年と話しているような「ピュアゆえの融通の利かなさと、そうした自分への許容・自尊心」。これは、キャリア形成後に当事者となったケースの「易怒とセットになった自罰感情や自己嫌悪」とは、大きな差を感じる部分です。
思えば1 7歳という、社会的人格の形成前の頃には、仕事の場で往々にしてある理不尽に対して義憤に駆られたり、アンビバレンツな感情を抑えるのに苦労する経験が、誰にでもありそうなもの。多くの者がおいおい「折り合いをつける」ことを学ぶのに対し、岡崎さんには障害特性上その折り合いをつけられなかったからこそ、十代のような感性を残したまま今の年齢に至っているように感じました。
もう一点、非常に興味深いのは、岡崎さんが未診断・無支援の中で生きてきた中、誰からも何の指導もないのに、必要な代償手段や環境調整を身につけてきていること。ともすれば、支援や指導を得た当事者以上に、それらが高いレベルで定着しているように感じたことです。
代償として、数え切れない失職と挫折を繰り返してはいますし、同じ経験をすれば折れてしまう当事者の方が多いでしょう。けれど、岡崎さんに染みついた、お仕着せではない、自身の中から出た工夫は、障害受容の一つの理想形のようにも感じます。

インタビュー記事

ぼくは、運の悪い男や

「とにかく、僕は運の悪い男や、世の中に僕ほど運の悪い男はいない、って思い続けてましたね」

歳で事故を起こす前の職歴は、八百屋や居酒屋でのアルバイトだったという岡崎さん。幸い身体に大きな麻痺は残りませんでしたが、医師から高次機能障害の診断は出ませんでした。告げられたのは「知能低下」のひとこと。けれど、岡崎さんが「運が悪い」と思ったのは、事故を起こしたことではなく、その後の仕事が全く続かなかったことについてです。

岡崎さんは事故の直後から「緑が脳の回復にいいかも」という周囲の勧めもあって、ゴルフ場でグラウンド整備のバイトを始めましたが、短期間でトラブルを起こし、辞めさせられてしまったと言います。

「あの時は、何かに腹を立てて、怒ってしまったんですね。職場で。相手は、マネージャーとか、そういうお偉いさんやったと思います。思いっきり怒鳴ったということは覚えてますけど、なんで怒鳴ったのかということは憶えてないんです」

高次脳機能障害の特性の一つとして指摘される「易怒(いど・怒りやすさ)」による、発作的な激怒。この怒りによる対人トラブルは、その後の岡崎さんをずっと苦しめ続けることとなります。


普通に出勤しても遅刻

たとえ軽度の診断だったとしても、高次脳機能障害の当事者が共通して抱えることになることの多い「時間通りに動けない」「情報量の多い場所での混乱」といった特性も、岡崎さんにはありました。

「自分で言うのも何なんですけど僕、大の遅刻魔なんですね。昔は酷いときは二時間とかですから『何しに来てんのや、舐めとんのか、何しとったんや!』ぐらい言われますけど、ルーズにしてるわけじゃないんです。ただ何かを用意しているときに、他のものに気を取られたり、探しものがあったりすると、そっちに意識が集中してしまう。それが何でかと聞かれても、自分で何しとったのかも分からないから『普通に出勤しました』としか言えないんですね。あと、人がたくさんとか、音がたくさんみたいな仕事は、やっぱり駄目です。色んな仕事しましたが、一番堪えられなかったのは市場。魚をトラックとかターレー(構内車両)で運んで、構内をぐるぐる回る仕事でしたけど、完全停止。何をしていいのか、分からない。完全ストップになりました。突っ立ってる状態で 『無』、『そこに存在していないような感じ』で、疲れ果てて、憔悴しきってしまう」

これらは、高次脳機能障害の当事者が仕事をする上での「あるある」です。けれど、そうした不自由を大きく超えて、仕事が続かない理由の大部分を占めたのは、やはり怒りの感情のコントロールが効かないことだったと岡崎さんは言います。


怒りのスイッチ

「客商売で顧客とトラブルを起こしたことは一度もない」と言うだけあって、岡崎さんの語り口は快活。笑顔を絶やさず、自分から積極的に他人と交流を持とうとするタイプで、人当たりは特別に良い方に感じられます。そんな岡崎さんの怒りのスイッチが入ってしまうのは、決まって、仕事の上司や同僚の「筋の通らない話」に遭った時です。

例えば、契約外で発生する仕事内容について。当日の人員数の都合など、仕方のない事情について理解はできます。ただ、引き受けること自体が嫌なのではなく、それを当たり前のように命令口調で言われると、岡崎さんは激昂してしまうのです。

「よく言われるのは『なんで我慢せんのか。社会人ならそこは折れないといけない』ですね。けど、そもそも筋の通ってない話が駄目なんです。もう、怒りで身体の動きが抑えられない。震える。『イーッ』ってなってしまう。『来た来た、あかんあかん』と思って、なんとかその場を離れることができても、戻ったらあかん。あかんと分かっていても『もう一人の自分』がいて、戻って、怒鳴り散らしてしまうんです」

岡崎さんが常に言ってしまう言葉は、日本は法治国家で、法律のもと、僕たちは生活してるし、労働基準法もある、ということだそう。

「僕らは、親である会社の背中を見て育つんや、だったら会社は法律守ってやりなさいよって。なんか筋の違うこと言われたり、別件で注意されたりした時なんかに、それを言ってしまうんですね」

一度こうなってしまうと、岡崎さんは、その問題点を放っておけず、納得いくように説明してくれと、必要以上に相手を追い込んでしまいます。

「もう止まらない。僕一人の言葉じゃ相手にしてくれない場合は、労働組合を使ったり、労働基準監督署やハローワークに駆け込んだり。そうすると即クビになりますね、見事に。自分でもたちの悪い人間だと思いますよ。でもやっぱり許せないんですね」

もめては辞め、もめては辞め、こうして岡崎さんは対人トラブルによって、数え切れないほどの仕事を転々とし続けました。

工場内作業、ガソリンスタンド、警備員、パチンコ屋、清掃業、市場、水商売、新聞や牛乳の配達、土木、解体屋、ピザ屋、営業、不動産屋…………。事故から今に至るまで、普通の人間ならば、一回の人生で経験する機会がとてもないだろう多くの職歴のほとんどを、岡崎さんは職場の人間関係で辞めたと言います。


凹む時間を決めるようにした

なぜ続かないのだろう。なぜまた辞めてしまったのだろう。若いころは、新たに求人を探して応募するのも辛く、友人に、自分のふりをして電話をしてもらうこともあったそうです。後悔や自己嫌悪を引きずることもありつつ、けれど岡崎さんは、徐々にその状況に立ち向かう術を憶えていきます。

「周りの人間に負けたくない、でも、できないことが多い、仕事が続かない。苦しかったですけどね。ズルズル気にかけていくと、なかなか立ち上がれない。けれど、何かの本で読んだんですよ。何日凹むと決めて、凹み終える期日を決めればいいって。それで、仕事を辞めたあと一週間ぐらいは凹んで、思いっきり凹んで、そこから全ての気持ちをシャットダウンして、次に行くってことをするようにしました。そうして、当たって砕けて当たって砕けて、数をこなして、今では、この仕事もあかんかってなっても、すぐ見つけてきますからね。求人の電話なんか躊躇なくかけますし、面接でも落とされたことはほとんどないんです。仕事得るためだったらどんないい顔でもできるんで」


やれない仕事を工夫する

うして数え切れない職歴と挫折経験の中、岡崎さんは自身に向いている仕事として、運送業に着目しました。

「やっぱり自分は、昼間で人が多い職場やったらすごい混乱するし、人と関わったら絶対トラブルを起こす。だったら人と会わない気楽な仕事で、夜勤の仕事って絞り込んでいったら、運送業だったんです。運送業自体は二十歳ぐらいから経験はあったんですが、色々な仕事する中で、自分はここしか無理だということで、定着した。今は求人見る時も、運送以外見ませんからね」

そうしてたどり着いた運送業だからこそ、対人トラブル以外にもある高次脳機能障害の不自由な特性について、岡崎さんは自身の苦手の理解と対策を重ねました。

「実は地元の道を自分の車で走ってても、いきなり道がバン!って、シーンが変わったみたいになって、急に知らない道になることがあるんです。ナビ入れてても混乱して、わけ分からない状態になります。これは運送の仕事の途中でもあります。怖いですし、焦りますね。家の近くの道でも本当になるんですよ。あと、そもそも僕は地図見られないんですね。他の人は地図見て丸印をつけたりで目的地いけるけど、僕は地図見たらパニックになるんで。そんななんで、新規ルートについての仕事は、ほぼほぼ受けないようにしています。できないって言いますね。固定ルートに横乗り(他のドライバーの同乗)しっかりして、道を身体に覚え込ませて、ノートに道をしっかり書いて、走れるようにしてからにしてます」

遅刻については、出勤時間より大幅に、早め早めに動くことで対策を取る。荷物の積み込み途中で「何個積んだ?」と確認されても、全く分からないので、毎回「正」の字を書く。

「横で60過ぎのオッサンが普通にやれてることが、やれない。けど、そうしてやれないこと工夫して解決すれば、運送の仕事はほんと楽やと思うんです。伝票作業なんか苦手ですけど、基本はサイン貰ってくるぐらいやし。ヘンコ(変わり者)が多いんで、気が強くないとやってけませんが、いわゆるキツイ汚いのイメージもあって、若い子がやりたがらんので、常に求人もありますし」


15 年越しの障害告知

岡崎さんは事故で受傷した段階では高次脳機能障害の診断を受けませんでした。自身が障害の当事者とは知らない中、なんの支援もない中で、できることを探し、できないことに対策をし、暗中模索であがき続けた岡崎さん。ようやく高次脳機能障害があると診断が出たのは、事故から実に15年以上経つ三十代半ばになってからのことだったのです。

「そんときは、泣きましたね。母親に、申し訳なくて。せっかく産んでもらったのに、勝手に事故してこんなことになってしまって、本当にゴメンって泣きました。けど一方で、障害があるんやって言われて、ああ、それでできへんかったんや! って腑に落ちた感じもあったんです。これやったんか! って、スッとしました」

当時正しい診断を受けられなかったことにも、その後の支援がなかったことにも、恨み言はないと言います。

「苦しかったですけどね。でも、もし初めに障害者やと言われていたら、自分は障害に甘えたり逃げたりしてたと思います。事故から障害を知るまで15

年、ずっと自分は健常者だと思ってあがき続けて、経験を積み重ねられたからこそ、いまの自分にある『なんでもやってみんと分からん』とか、当たって砕けろ精神みたいな強みができているのかなと思うんです」

確かに岡崎さんの、失敗を恐れぬ猪突猛進ぶりは、かなりのものです。障害の診断が降りたのち、岡崎さんは母親へのサプライズ誕生日プレゼントとして高卒資格を取り直し、また、運送業で働く傍らで、児童養護施設に育つ子どもたちを支援するNPO法人を立ち上げました。現在では高次脳機能障害を社会に知ってもらうためのYouTubeチャンネルの運営などもしています。

その土台には、悔しさの中でもがいた15年があるのでしょう。そんな障害告知からまた5年、岡崎さんには仕事をしていく上で、一つの信条があると言います。

それが、「仕事の場では障害をオープンにしない」という考えです。


「障害をオープンにしない」という選択

「僕が障害をオープンにしない理由は、やっぱり障害者枠での仕事は賃金が安いこと。妻も子どもいて、その賃金じゃ生活できないので、オープンにしたくないっていうこともあります。けどもう一方にあるのが、差別です」

診断後、岡崎さんは、障害があることを職場にオープンにして、配慮を求めたこともありました。が、そこにあるのは苦々しい記憶です。

「オープンにして、嫌な目にいっぱい遭いましたもん。差別はあります。綺麗ごとじゃない。もうね、なんかちょっとミスったら、障害者やからとか、障害者はデキが悪いとか、見下す。人が勇気持ってオープンにして、なんでそんなこと言われなあかんのや。で、こっちがキレたらキレたで、それを笑って『うわ、障害や』って言われたこともありますから。それで行けなくなった仕事もありました。言わんかったら良かった。これは運送業界やからというのもあるかもしれないですけど。でも、NPOで絡んだ福祉側の人でも『障害を言い訳にするな。甘えるな』って手紙送ってきたやつまでいましたからね」

障害があると分かるといじめてくる人、同情してくる人、色々いるけれど「大多数は、君とどう向き合えばいいのか分からないって人だと思うんです」と岡崎さん。

「だから僕は、だれかれ構わずオープンにはしたくないんです。長く関わろうという人間には言いますが、基本は、障害とは出さない。できるだけのことはする。できないことはできない」

これが、岡崎さんのたどり着いた、高次脳機能障害を抱えつつ生きるスタンスでした。

易怒のある当事者からよく聞く言葉が、「お願いだから僕を怒らせないでくれ」というものです。発作的な易怒で自分でも理解できないほどに荒れてしまう状況に、お願いだから陥らせないでくれという、それは懇願に近い言葉。

差別があるからオープンにしないというのは、消極的対策に思われるかもしれませんが、岡崎さんの気持ちを翻訳すれば、それは「障害をオープンにしたことで差別を受けて、また自分をコントロールできない状況に陥りたくない」という、切ない自己防衛にも思えるのです。


【将来の夢は】

「僕は高次脳機能障害になったんが17

歳なんで、事故前に何がやれていたか、事故後に何がやれなくなったとかも、憶えてないんです。それから今まで、怒らんようになったとか、できないことができるようになったとか、そういう回復したみたいのも分からない。ずっとそういう状況で生きてきたんで。けれどここ数年、NPO始めて、子どもの笑顔に触れることで、めっちゃ変わった、顔つきから変わったわって言われるようになりました。敬語

をきちんと使うようになったとか、服装をきちんとするようになったとか、事業のため、子どものために変わった部分もあるけど、やっぱり子どもの笑顔がすごい脳の刺激になって、リハビリになってるんやと思うんですよね」

かつては見えない障害を抱えながら、生きていくために働き続けることで精一杯。二十代から三十代にかけて、何かやりたい仕事や夢を考える余裕もなかった岡崎さんですが、いずれは現在代表を務めているNPO法人の事業が主な収入源になるまで、展開したいと考えているそうです。

NPO法人 エスペランサ

https://www.e-speranza.net/