フルサポート体制と言うけれど…大手鉄鋼系エンジニアリング企業勤務 市川さんの場合
ばりばりのバブル期に自動車メーカーに就職しました。仕事の後はディスコ行って、カラオケ行って、休みのたびに海外とか、そんな時代でした。その後、自分の価値観に合う外資系の自動車メーカーに転職したのです。何度も渡米して研修を受け、日本流にアレンジして伝えるような仕事をしていました。その会社で働いている時に、発症しました。当時34歳です。リハビリを経て、その会社に復帰したのですが、業績が悪化して部署ごとリストラになりました。もともと転職した人が多い会社でしたので、そんなに悲観的にならずに、次の会社を探し、障害者雇用で日本の会社に就職しました。でも、待遇などを考え、そのあと障害者枠ではなく、一般枠で今の会社に転職しました。
発症した時は、がんがんに仕事をしていた時です。神奈川県の大磯で車のイベントして、そのまま金曜日の夜に自分で運転して東京に戻ってきたんです。くったくったに疲れてましたが、翌日の土曜日に同僚と飲みに行って、酔った勢いでバッティングセンターに行って、さらに、そのあとカラオケ行こう! ってことになって、そこで、倒れました。ちょうど近くに大きな病院があったので、すぐに入院できました。
原因はAVMなんですね。脳動静脈奇形です。まさか自分にそんなのがあるなんて思ってないので発症して初めて知りました。仕事もして、遊びもして、疲れ知らず。健康診断でも問題がなかったですし、健康には自信がありました。
出血の量も多くて、脳が腫れていたので、開頭して手術しました。がばっと頭蓋骨をとって、血腫をとりました。骨が入るまでは、包帯の上から頭を触ると、ふよっふよっとした状態がしばらく続きました。倒れたのは12月11日ですが、その年の残りは記憶がないですね。
麻痺があったので、車いすに乗る、立つなどのリハビリをしていましたが、生活に向けたリハビリという感じではなかったですね。主治医から「ここにいてはだめだよ」と言われ、2月半ばに、国立リハビリテーションセンターに転院しました。そこから4か月、鬼のようなリハビリ生活が始まりました。ここではなんでも自分でしないといけないんですね。車いすがひっかかっても「はい、自分でやってみてください」みたいな感じです。センターには、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、そして心理の人がいまして、退院したあとも週3日通っていました。個別のリハビリもありましたが、グループ訓練もあって、いやでも他人とコミュニケーションをとらないといけないので、鍛えられました。
自宅でも、まだ子供が小さかったこともあって、家事など分担をすることになり、毎日、忙しかったのがよかったですね。当時、高次脳機能障害のモデル事業が始まった時で、若い高次脳機能障害の人をどうやって会社に戻すのかという事例に該当したんですね。そこで、会社とセンターの人が話し合いを重ね、手厚いバックアップで復職できました。
インタビュー記事
フルサポート体制での復職ケース?
市川剛さんのお名前は、高次脳機能障害周辺の情報にアンテナの立っている方であれば、耳にしたことがあるかもしれません。当事者会「未来の会」(埼玉)の代表として、関東地区でピアサポートに積極的に取り組む当事者の筆頭格でもあり、厚生労働科学研究費補助金事業の一環で障害者ピアサポーター養成研修に関わり、高次脳機能障害分科会のメンバーとして発言されてもいます。
そんな市川さんは、受傷時にちょうど発足した厚生労働省(当時、厚生省、以下厚労省)の高次脳機能障害モデル事業のモデルケースとして、所沢の国立障害者リハビリテーションセンター病院でリハビリ支援と職業訓練も経験。いわば当時のフルサポート体制と言える環境で復職したケースですが、果たして受傷後20年以上に渡って当事者として働いてきた道のりは、どんなものだったでしょうか?
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