言葉を失った国語教師 特別支援学級教員 馬渕さんの場合
子どものころから学校の先生になりたかったんですね。好きかと言われると、う~んというところもありますが、誇りをもってやってましたね。当時は中学校に勤めていました。部活動を担当していたので、土日もずっと出てましたね。休みはほぼない、月に1回って感じで。成績が良い学校で、私も一生懸命でしたね。朝は7時に出て、帰宅するのは8時、9時とか。忙しかったし、健診でちょっとメタボが指摘されてましたが、身体は健康だと思っていました。
41歳の春ですね、いつも通り、部活の指導に行こうと思い、早く起きて珈琲を飲んでいました。「さ、歯を磨こう」と思った瞬間、右手が痛い!! となって倒れ込んでしまいました。足はどうだったか覚えてないですね。かみさんが救急車を呼ぼうって言ったけど、大丈夫、大丈夫って言ってたような、そのあたりから記憶は断片的ですね。搬送された病院で、すぐに血管を拡張する手術をしたんですが、その辺はちょっと覚えています。結局、手術は効果がなくて、点滴の治療に切り替えたんですけどね。
かみさんいわく、倒れた直後から、言葉は全然ダメだったらしいです。目が覚めてから、言葉が出ないことに気がついて「あ、教師には戻れないな」と呆然としました。お医者さんからも「絶対に無理」って言われて、これからどうしよう……って。でも、自分の名前も言えないのに「教育委員会」とかいう言葉が出ることがあったりしてね、かみさんは「この人、根っからの教師なんだな」と思ったそうです。
リハビリって、できないことばっかりさせられますよね。なので、入院生活がほとほと嫌になってしまって。うまく話せなかったのですが、文字で「帰りたい」って伝えたんです。どうやら顔つきからも鬱っぽくなってきたようで、STの先生も心配してくださって。そこで、毎日通院するって条件で自宅に帰りました。かみさんには仕事があるので、親が毎日、車で送ってくれたんです。午前中に病院に行って午後からは自宅で自主練。すすめられた自主練はすべてやりました。
そうこうしているうちに、校長先生から、休職中だけど、ちょっとでも学校に来てみたらどうかという提案がありました。全校生徒の前で、自分はこんな病気になって、言葉が不自由ですが、また学校で一緒にがんばりましょうという挨拶をしました。何度も、何度も練習してね。こうして少しずつ学校に戻って行ったんです。
インタビュー記事
国語教員が言葉を失う
学校教員とは、いわば「話のプロ」です。そのプロが、失語症と高次脳機能障害を抱えることとなる……中学の国語教員として20年近いキャリアのあった馬渕さんの当事者人生は、深い失望から始まりました。
「言葉が全くでなくて、自分の名前もあいうえおも言えない状態。一番に考えたのは、学校の先生としてはもうたぶん駄目だろうということ。仕事のことを真っ先に思いました。教員の仕事は子どものころからの夢で、誇りをもってやっていたので、学校の先生じゃない僕というのがあまり想像できなくて『これ困ったな』というのを、真っ先に思いましたね。三つの言葉が言えるようになったタイミングで退院をしたのをよく覚えています。すいません、ありがとうございます、ごめんなさい。退院の段階も、自分の名前は全然言えなかった」
入院生活は短く、一カ月ほどを急性期病棟で過ごしたのちに自宅に戻った馬渕さん。入院中は自身の名前も言えない状況なのに、教育委員会からの見舞客が来たときに「教育委員会」という言葉はスっと出てきて「根っからの学校教員だね」と同じ教員の奥様に言われたりもしましたが、退院時に主治医からは告げられた言葉は「命があっただけでもありがたいと思ってね。学校の先生の復帰は絶対に無理」というものだったと言います。
「この時点では、ここからどうやって良くなっていこう、復帰しようといった考えはあんまりなくて、とにかくこれから先どうしようっていう思いの方が強かった。先の見えない、言葉にしようのない不安に、長い長い出口の見えないトンネルに入ったなという感じだった」
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